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June 02, 2004

基準の違い

なぜISO継続…三菱大型車欠陥問題 : ニュース : @CARS : Yomiuri On-Line (読売新聞)

世間を騒がせたISOだが、世間を騒がせた三菱とも問題らしい。(ここではISO9000の話をISOとする。)
多くの人が勘違いしているが、ISOは品質に対する直接的な基準ではない。よってISOを取得していても、それが直接品質の優秀性にはつながらない。
日本的品質基準が結果に対する基準であるのに対し、ISOはあくまでプロセスに対する規定があるということを示すだけである。さらに言えば、そこには良心もモラルもないかわりに、上司や部下を売ることもいとわない従業員がいることを前提としている。

今回の三菱の事件は、私的にはセンスとモラルの欠如だと思っている。つまり、「これはちょっとやばくないか?」と気づき、「これは理由はどうあれ直さなければ。」と思える人がいなかったということである。
ISOはダメなアメリカ人に普通にモノを作らせるにはどうするべきかを基準に作られているから、規則でがんじがらめにして、そこから逸脱しないようにするのが主たる効能である。そのかわり、上司が何を言っても契約外のことは良いことも悪いこともしないという前提にたっている。

従業員が良くも悪くも自分で考えて行動することができるとしたら、ISOはかなり悪しき制約にしかならない。現に日本の工業品質はISOが無いときの方が良かったくらいだろう。簡単に言えば、賢い人には邪魔なものでしかない。

そういう観点から私はISOに否定的な立場だったが、最近の日本人の労働力品質を見るに、ISOも必要かなと思い始めている。しかし、あくまでISOから得られる結果は、Best でも Better でもなく Fare でしかない。 なぜならISOに則った作業手順書を作る人が、全ての人のBestを盛り込めるわけも無く、時間的にも経済的にもそこまでエネルギーを投入できないからだ。 ルールブックを作る人は、必要最低限でかつ取りこぼしが無いように作るだろう。 

今まで日本式結果品質主義で成果を出せていた会社はISOは取得しても、心のどこかでは邪魔にしか思っていない。顧客の要求により代紋を買っただけであり、本当の品質は違うと思っているからだ。さらに年功序列や上意下達というのはISOと相反する。義理や人情もだ。

日本的な感情を廃して認証を取得しているわけでもない。検査協会が来たら、行幸かと思うほどのもてなしようだ。直接的な金品のやりとりこそない(と思う)が、なぜ検査される側が検査する側を接待しなければいけないのか?検査する側も自分がお代官様にでもなったつもりなんじゃないかと思う。

ISOの理念となぜそれを必要とするのかという理由、そしてルールブックが全てになった時に必要ない感情の排除までを全従業員に徹底しない限り、ISOは真価を発揮できない。そして、それまでの間はISOの代紋を掲げつつ、社内基準でものは進むのだ。

投稿者 kid : June 2, 2004 08:15 AM

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