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August 15, 2006

戦争と被害

たぶん、靖国問題に対して中国と韓国が色々言ってくるのを疎ましく思っている人は多いのではないだろうか?
いったいいつまで被害者を続けるのだろうか?とうんざりすることも多いのでは?
丁度7月末から8月頭に訪日したせいもあって、色々なメディアで終戦前後の話を見たが、少し気になったのは被害者意識の問題だ。日本ももちろん戦争で被害を受けたから被害者と言えば被害者なのだが、追い詰められたとは言え宣戦布告をしたのは日本だし、戦争に負けたのも日本だから、戦争被害を声高に訴えることはできないだろうと思うのである。もちろん、原爆による被害が想像を絶するほどひどかったのは知っているが、やはり戦争終結を早めるのに必要だったというアメリカの主張にも一理あると思う。
おそらく欧米人の基準からすると日本兵のしつこさは常軌を逸していただろう。小野田さんや横井さんを見れば明らかと思うが、そこまでしても降伏しないで戦い続けるなど欧米人には思いもよらないことである。各地の戦場で圧倒的な戦力差がありながら、多くの被害を出さなければならなかった米軍としては、こんな汚い戦争をどこまで続ければ日本が降伏してくれるだろうか?と悩んだことは想像がつく。本土決戦をして東京市街戦をして、なおかつ全国を完全に平定しないことには一人でも残っていたら戦い続けることは間違いないから、最終的に勝つのはわかっていたにしても、泥沼に巻き込まれてたくさんの死者を出しての勝利はなんとしても避けたかったと思われる。とすれば、何らかのターニングポイントが必要だったという主張は実際的だと思う。もちろん、ソビエト参戦を嫌がったり、新型兵器を作ったから使いたくて仕方が無かったというのも理由の中には含まれていると思うが。日本兵があんなにしつこくなくて、すぐに白旗をあげるようだったらおそらく原爆は投下されなかったと思う。
それともう一つは一般市民に対する大量虐殺の罪だが、もしこれを咎めるのであれば、いたずらに原爆被害ばかりを言うのではなく、ドレスデンの空爆などを追及するほうが良いのではないかと思う。こちらも結局、東京があれほど空襲にあっても戦争継続をしつづけるような強力な国家体制だったからこそ起きてしまったことなのだと思う。
私個人としては市民に対する攻撃と戦場での攻撃を分けることはできないのではないか?と思う。というのも市民だけがかわいそうなのではなく、兵士も同様だと思うからだ。特に日本においては徴兵制度に基づく兵士がほとんどであり、本人の意思で戦場に出たわけではない。好きでもないのに戦場に駆り出された人間への攻撃は合法で、市民への攻撃は違法というのは矛盾を感じる。実際のところ国家総力戦であり、さらに言えば勝敗を分けたのは戦場での兵力よりはむしろ本拠地における生産能力の差だったわけだから、勝利のために必要という意味でも本土攻撃は咎めることは難しいと思う。
被害者として声を上げることも構わないが、その時に加害者としてアメリカの名だけをあげるのはやはり間違っていると思う。追い込まれて開戦に踏み切ってしまった政府や追い込まれるようなことをした関東軍なども加害者に名を連ねるべきだろう。
アジア諸国に対しての加害者であることは事実であり、それに対する謝罪は必要であるが、その謝罪の仕方は中国のわがまま放題を認めることではなく、むしろ中国がかつての大日本帝国と同じアジア覇権を目指すのを諌めるのもまた立派な謝罪であろう。強力な軍事力を持ったとしても間違った形では行使しないだろうと信用してもらえる政策作りや信頼関係の醸造が一番大事であり、統制を明確に示せるような政府が望ましいと思う。
ところで、戦前戦中世代がいなくなったら、被害者はいなくなるのだろうか?感情的に恨みは残ると思うが、先祖が被害にあったから自分も被害者だという論理は勘弁してもらいたい。まして、戦時には既に別な国にいた中国系アメリカ人が被害者を名乗ったり、連合国側で戦った日系アメリカ人が加害者呼ばわりされたりではあまりに不当だろう。いつまでも被害者意識から抜けなければ、それ以上に成長しないことは確かで、中韓がいつまでもタカリ体質でいるならそれもそれで構わないのだが、日本まで一緒になってクレーマーになることはあるまい。

投稿者 kid : August 15, 2006 12:37 AM

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