« 敗戦は必至だったのか? | メイン | やっぱ黒塗りが要るんじゃ? »

科学という信仰

何度か書いたけど、僕にとって自然科学は信仰に近い。自然科学が発生した理由も、宗教と大差ないと思う。かたや神頼みしてよい結果を求めたのに対し、かたや過去のデータから未来を予測できる理論を組み立ててよい結果を求めただけだ。人類の初期の科学や信仰が発生してから何千年も経つが、どちらか一方が完全に勝利を収めたわけではない。

僕にとって、この信仰は意味があると最近改めて思うことが多くなった。というのも、科学という信仰が極めて弱いアメリカの人たちの中で暮らしていると、自分一人だけに未来が見えることがよくあるのだ。正確には、自分には自明とわかっていることに自分以外の誰もが気づかない、ということがよくある。僕を主体に考えれば、どうしてこんな明らかなことに気づかないの?となるが、彼らを主体に考えれば、一人だけが未来を予言している状態になる。神様が明日は晴れだと言っている、では誰も信じてくれない。科学という信仰がない人間には、神の声は聞こえないのだ。ガウスが1から100まで全部足せと教師に言われたときに、ものの数秒で5050と答えたら、信仰のない教師は、大嘘、あてずっぽうとしか思わず、正解とは思うまい。もし正解なら神の啓示としか思うまい。

科学が絶対の信仰ではない可能性もあろう。決してそれは否定しない。もし反証が現れれば、それに従うのもまた科学の教義だから。しかし、科学という宗教に帰依している以上、それに対する信頼を持ち、その教義に反することはしない。それが信者のとる道だ。

そんななか、信者が最もしてはいけない行為がある。それが、捏造だ。それもデータの捏造は地獄に100万遍落ちても罰し足りないくらいの罪である。

論文ねつ造:大阪府立大院生認める 想像で数値データ入力-話題:MSN毎日インタラクティブ

思えば僕は恵まれていたのかもしれない。幼い時から良き導師に教えられてきたのかもしれない。ある先生には、観測値には誤差がかならずあるのだから、グラフは点ではなく面積のある丸で書けと言われた。ある先生には、実験ミスだと明確に意識していたとしてもデータを決して削除するなと言われた。これらは、仕事の手順というよりは、完全に信仰の世界である。きれいな曲線のデータからはみ出した点があれば、それは悔しいし恥ずかしい。しかし、それを甘んじて受け入れて発表しなければいけないのは信仰心なしにはできない。その信仰心は、ここまでこの宗教を作り上げてきてくれた先人に対する感謝でもあり、新しい発見の機会を授かりたい苦行なのかもしれないが。

私の師は、学問ももちろんだが、信者の姿勢を本当によく教えてくれたと思う。機械ですれば5分で結果がわかる実験に3日も費やした。それは目先の結果や多量のデータを得るためではなく、私という信者がこの宗教の中でより多くを学べるようにするためであり、私により多くの神の言葉を聞ける能力を与えてくれた。

多くの国立大学が行政法人になり、競争原理という名の下に論文の数で予算が割り振られるようになったときに、データの数を減らしても、論文の数を減らしても、予算の枠を減らされても、信仰を最初に教えてくれる教授がどれだけ残っているのだろうか?とても心配でならない。


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.fumicat.com/mt/mt-tb.cgi/1467

コメントを投稿




きょうのカウンタ
きのうのカウンタ
ページカウンタ